日出(いず)る国のシンデレラ

前回、「以下次号!」とか書いたけど。

ちょっと面白い話を聞いたので、「次号」の前に皆さまにご披露しておこうかと思いまして。


先日、飛鳥に行ってきたのですが、せっかく行くのならと、興味のある場所を歩き回ってみようと画策しました。

なにしろ、飛鳥でさえ数えるほどしか訪れていないのですから、偉そうなことを言いつつ、実は完全な「初心者」なのです。

両槻会の例会で藤本山とか尾曾とかマニアックな所に行ったことはあるものの、それは両槻会の力を借りた仮の姿で、実は藤原京跡や山田寺などの基本的な所にまだ行ったことがありません。
(今回、藤原京跡を通りかかったとき、両槻会スタッフに「ここ来るの初めて~」と能天気にのたまったところ、「ええええっ!」と驚かれてしまいました)


で、「磐余」を歩いてみようと思ったのですね。

一人で歩く、あるいはチャリをお借りして一人で走る、という案もあったのですが、梅前のあまりの頼りなさに、「わかった!もう案内してあげましょう!」と両槻会スタッフが乗り出してくれて、みんなでそのあたりを歩くってことになったわけです。
ありがたい。ホント、ありがたいお話でゴザイマス。

その「磐余散歩」の詳しい話は、そのうちに「飛鳥遊訪マガジン」に書きますので、そちらを読んでね。
あ、無料のメルマガです。興味のある方は こちら からご登録くださいませ。
ワタクシ梅前が、発行作業のお手伝いをしております。


で、当日は、両槻会事務局長が、資料まで用意して下さいました。
これがまた。
素晴らしい資料で、ありがたいことこの上ない。
無知なオバサンの上に降り注ぐ、事務局長のご人徳。
その甲斐あって、天気予報は雨模様だったのに、歩いている最中は雨に降られることはありませんでした。


その時に初めて知ったのが、

「芹摘姫伝説」。

どのようなお話かと申しますと、

その昔、斑鳩に宮を構えた聖徳太子は、推古天皇のおられた小墾田宮まで、馬に乗って通っておりました。
膳夫の地(現在の橿原市膳夫町付近)を通りかかったとき、ひれ伏す人々の中に一人だけ、聖徳太子が通るのにも気づかず、一心に芹を摘む娘がおりました。
不思議に思った聖徳太子が馬を降り訊ねてみますと、娘は病に伏した母のために芹を摘んでいたというのです。
娘の清らかな姿に心を打たれた聖徳太子は、娘を妃として迎えました。
その妃こそ、聖徳太子に最も愛され、太子が亡くなる前日に、同じ病で没した膳部菩岐岐美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)とされています。



膳部菩岐岐美郎女は、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)の娘だったと言われています。
その一方で、膳臣の養女となって、聖徳太子の妃となったという説もあります。
そのあたり一帯は、現在も地名が残るように、膳臣の勢力圏だったとされているからです。
母のために芹を摘んでいたという伝説が本当ならば、彼女は名もなき民の娘だった可能性もあります。お話としてはそちらのほうが面白いですよね。


民の娘が、その心の清らかさゆえに、貴い人の妃になる。
まさにシンデレラストーリー。女の子の夢ですな。

聖徳太子の妃には、推古天皇の娘やら、蘇我馬子の娘やら、敏達天皇の孫やら、そうそうたるメンバーが揃っていたのですが、彼の愛情を一身に受けたのは、名もなき民の娘・膳部菩岐岐美郎女でした。
そういうところも、ストーリーとして美しい。
映画にしてほしいくらいです。



……でもさ。

と、ひねくれ者の梅前は考えてしまうわけですよ、例によって。

太子が通るのに気がつかず、芹を摘んでた?

気がつかないはずはないと思うけどなぁ、はっきり言って。
だって、みんながひれ伏してるんだよ?
まわりに人がいなかったってシチュエーションもありえるけれど、聖徳太子のまわりにはお供の人がいたはずだし、太子の一行であることを示すために幡を立てていたっていう説もあるくらい賑々しかったはず。

それを「気がつかないで芹を摘んでた」。
それも、「病気の母のために」。

へ~~、そうですか。お母さんのためにねぇ。

考えようによっては、この「芹摘姫」、そうとうなタマだったようにも思える。
もしかしたら彼女は、自分の美貌をわかってたんじゃないのかなぁ。
聖徳太子の目にさえとまれば、イチコロにできる自信があった。だからこそ、他の民と同じように、道端にひれ伏すつもりなんかなかった。

「さあ。私を見て」

そう念じながら彼女は、一番自信のある横顔を、太子一行に向けていたんだろう。

まんまとひっかかった太子くん。
オトコって単純ね。
ま、幸せだったらそれでいいんだけどさ。


この考えを両槻会スタッフに披露したところ、「うわ~、ひねくれとるなぁ~」と大絶賛(違う!)されました。


ま、かの美輪明宏先生も、

「シンデレラはとんでもない女よ。だって、相手が王子だってわかっていたんだもの。わかっててひっかけたのよ。悪い女だわ」

とおっしゃっていたこともありますしね。
芹摘姫が、「太子ひっかける気マンマンの女」だったという説も、ありえない話じゃないと思うわけです。


……もしも、本当に「純愛」だったとしたら、スマン。

聖徳太子と膳部菩岐岐美郎女に、心よりお詫び申し上げます。



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明日から!

土曜・日曜、飛鳥に行ってまいります。

何かと忙しくて、直前までどうなるかわからなかった飛鳥行きだけれど、何とか都合がつきました。

老母・オット・ムスメ、そして愛猫りんちゃんを置いての、一泊二日の旅でございます。

一日目の午前中、電車とバスを乗り継いで、仁賢天皇宮伝承地へ。
そのあと、「清寧宮が見たい!」とわがままを言ったワタクシに、両槻会の皆さんが応えて下さり、なんと!
磐余の地を散策することに!

わ~い。
磐余。
カムヤマトイワレヒコの磐余。
この国の王権の地・磐余。
本を書く時に、行ったこともないのにテキトーに地図を書き、風人さんから「あの場所に宮は建ちません!」と叱られた磐余。

飛鳥応援大使交流会までの短い時間ではあるけれど、とってもとっても楽しみ!
お天気が良くなるといいなぁ。


あ、応援大使のみなさん、梅前は交流会、途中参加です。 スミマセン。
だって四神の館、もう二回も行ったし。 キトラ古墳も。
なので、意見交換会とイケメン講演会から参加させていただきます!
古都飛鳥保存財団の皆さま、申し訳ありません!


で、日曜日は

飛鳥学冠位叙任試験

 スキャン_20170817


梅前は午前中、飛鳥駅前でお手伝いする予定。
お申込みくださった皆さま、駅前でお待ちしております!
申込みされてない方も参加可能です!
ぜひ! 飛鳥で冠位を手にしましょう!


去年は親友のMちゃんが突然遊びに来てくれて嬉しかったなぁ。
遠い地で会う友達って、なんか特別懐かしい感じがするんだよね。
今は博多のMちゃん。私もがんばるぞ。

でね。
午前中のお手伝いを終えたあとは、またまた自由行動させていただく予定。
古都飛鳥保存財団の皆さま、無理ばっかり言って申し訳ありません。 
3年目ともなるとこれだからね。。。 使いづらくって、ね~。

どこへ行くかって申しますと。

へへへ。
清寧宮、仁賢宮、ときたら、行くのはここ!

じゃ~~ん!

以下次号。



大伯皇女~妄想編

私が事務局のお手伝いをしている両槻会の、次回の定例会は

「廃寺に行こう!」

と題し、11月18日(土)に開催されます。
残席わずかです。(ホントに)
お申し込みはお早めに。


定例会に際して、いつもかわいいキャラが設定されるのですが、今回のキャラは

「おおくちゃん」。

天武天皇の娘で、伊勢斎王をつとめていた大伯皇女(おおくのひめみこ)です。

定例会で訪ねる夏見廃寺が、大伯皇女が建立した昌福寺とされているので、栄えあるキャラクターに起用されたというわけです。

例によって風人さんがとてもかわいいキャラを描いて下さったのですが、両槻会Facebookにまだ上げられてないのでここには転載しません。
そのうちに上げられると思うので見てみてね。 とってもプリティ。


で、「おおくちゃん」登場にあやかって、梅前も大伯皇女について考えてみることにしました。

ええと、お断りしておきますと、大伯皇女は「大来皇女」とも表記しますが(両槻会では大来皇女としています)、私は「大伯」で行かせていただきます。別に何か深いポリシーがあるってわけではなくて、ワードの変換がそれになってるってだけです、ハイ。


で、大伯皇女。

お父さんは 天武天皇。

お母さんは天智天皇の娘、大田皇女。

当時数多かった「叔父姪婚」です。
大田皇女は、天智の娘の中でも最年長の皇女で、さらに大田の母は右大臣をつとめた蘇我倉山田石川麻呂の娘だったとあって、その血統の良さは折り紙つきでした。
そんなこともあって、彼女は天武の妃に真っ先に選ばれたのです。

そんな大田皇女が生んだ大伯皇女は、天武の正式な妃となった女性が生んだ子としては初めての子でした。
(それ以前に額田王が十市皇女を生んでいますが、額田王はその後の天智との関係もあって、天武の正式な妃とはされていなかったようです)

つまり、大伯皇女という人は、天智を祖父に、天武を父に持つ純血種である上に、天智にとっても初めて得た娘から生まれた娘であり、天武にとっても正式な妃から生まれた初めての子だったというわけです。
初めてづくし。全部が一等賞、という女性だったんですね、大伯皇女は。
天智と天武が古代天皇の中でも両巨頭であることを考えると、これはなかなかすごいことであります。


その大伯皇女が生まれたのは、斉明7年(661)のことで、百済救援に向けての西征の途上、大伯の海にさしかかった船上だったとされています。

この、「大伯」という名ですが、二年後に生まれた大津皇子の「大津」とともに、生誕地の名前をそのまま採用した、当時の皇子・皇女としては珍しい名前です。当時の皇子や皇女は、養育氏族や乳部の名を呼び名とするのが一般的だったとされているからです。
ちなみに、大伯と大津の異母兄弟である草壁皇子もこの西征の最中に生まれていますが、彼は生誕地の名前をつけられていません。
大伯と大津だけがこうした異例の名を持つことについて、西征の成功を祈った呪術的なものと考える説がある一方で、「この姉弟には何か特別な事情が存在したのではないか」という考え(両槻会事務局長・風人氏)もあるようです。

天武2年(673)、13歳になった大伯皇女は、伊勢斎王に任ぜられ、翌年伊勢に下向します。
これは、いわゆる「伊勢斎王」の最初の例(伊勢に神宮が置かれ、そこに奉仕した斎王という意味。「斎王」自体ははるか古代から何名かの例があります)とされています。
これは天武の指示によるものと思われますが、ようやく婚期を迎えた大切な娘、それも、天智と天武にとって「初めてづくし」の貴種である娘を、なぜ天武は遠い伊勢に向かわせたのでしょう。
貴種だからこそ神に仕えさせたのだ、という考えもあります。その一方で、大伯と大津の姉弟に存在した「特別な事情」ゆえに彼女が都から遠ざけられたという考え方もできるのではないでしょうか。

大伯が伊勢斎王となってから13年、朱鳥元年(686)9月に父である天武天皇が崩御します。
その直後、弟である大津皇子が謀反を企てたと密告され、死罪になってしまいます。
父の死と弟の刑死により、大伯は斎王を辞し、都に戻りました。

大伯が亡くなったのは大宝元年(701)で、享年は41歳とされています。


この大伯皇女を語る上で欠かせないのは、何と言っても弟・大津皇子との姉弟愛でしょう。
父・天武天皇の崩御を受け、大津皇子は謀反を企てたとされています。一歳年長の異母兄・草壁皇子と、その母である鸕野讃良皇女に皇位が渡るのを阻止するためだったと言われています。
それに先立ち、大津皇子は、伊勢に奉仕する姉・大伯皇女に会いに行きます。
弟を見送る大伯の歌が、万葉集に残されています。

我が背子(せこ)を 大和へ遣(や)るとさ夜更けて 暁(あかつき)露に我が立ち濡れし
(わが弟を大和へ送り返さなければならないと、夜も更けて朝方近くまで立ちつくし、暁の露に私はしとどに濡れてしまいました)

ふたり行けど 行き過ぎがたき秋山を いかにか君が一人越ゆらむ
(二人で歩を運んでも行き過ぎにくい暗い秋の山なのに、その山を今頃君はどのようにしてただ一人越えていることでしょうか)


謀反の計画は密告により露見し、大津皇子は処刑されてしまいます。彼の死を受け、大伯は伊勢から退下することになります。そのとき詠んだとされる歌が以下の2首です。

神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ君もあらなくに
(荒い風の吹く神の国・伊勢にでもいたほうがむしろよかったのに、どうして帰ってきたのでしょう、我が弟ももうこの世にいないのに)

見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに 何しか来けむ馬疲るるに
(逢いたいと私が願う弟もこの世にいないのに、どうして帰ってきたのでしょう。いたずらに馬が疲れるだけだったのに)


さらに、大津皇子の遺体を二上山に葬るときに詠んだ歌が以下の2首。

うつそみの人にある我れや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)を我見む
(現世の人であるこの私は、明日からは二上山を我が弟として、ずっと見続けましょう)

磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど 見すべき君が在りと言はなくに
(岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折りたいとは思うけれども、これを見せることの出来る君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではありませんか)


最後の歌の中にある「馬酔木」は、「あし」=「悪し」で、それを手折る、つまり大津皇子は無罪であると訴えているという説もあります。


この切々たる一連の歌によって、大津皇子と大伯皇女の姉弟愛は、さまざまな人の想像をかきたて、たくさんの評論や小説が書かれてきました。
それらに共通するのは、「姉思いの弟」、「弟の死にむせび泣く姉」のイメージです。


大伯と大津にとって不幸だったのは、彼らの母である大田皇女が、早くに亡くなったことでした。

斉明女帝と、彼女の娘で孝徳皇后だった間人皇女が牽牛子塚古墳に葬られたのが天智6年(667)で、その時に大田皇女をその陵の前の墓に葬ったという記事が書紀にあるので、大田皇女が亡くなったのはそれより前と考えられます。その年に亡くなったと仮定すると、その時大伯は6歳、大津は4歳です。まだ幼い姉弟は、母を失うと同時に、母によって得られた後ろ盾をも失うことになりました。

大伯と大津、特に大津皇子の胸のうちには、「母さえ生きていたら」という思いが常にあったことでしょう。
大田皇女が生きていたなら、大田の妹である鸕野讃良皇女が天武の正妃になることなどありえませんでした。そしてもちろん、天武の死後、鸕野讃良皇女が即位しすることなど、考えられもしなかったはずです。

そうした思いが、大津謀反の引き金となったのではないでしょうか。

大田皇女さえ生きていたら、天武の正妃の座を占めていたのは大田だったはずで、もしそうだったなら、大田の子である大津が、天武のあとをうけて即位することも充分ありえる話だったことでしょう。まだ二十代半ばだった大津が直接即位できなかったとしても、母の大田が、天武の正妃として、大津の成長を待つための中継ぎの天皇として立ったはずなのです。

母さえ生きていたら。母が天皇になれた。そしてゆくゆくは、自分に皇位がめぐってきた。

大津にとっては父から母へ、母から自分へと皇位がめぐってくることこそが「本来の姿」であり、父の没後、母の妹にすぎない鸕野讃良皇女や、彼女の息子である草壁が天皇になろうとしていることなど、笑止千万に思えたはずです。


その思いが、彼を謀反へと駆り立てたのではないでしょうか。
それは「謀反」ではなく、彼にとってはそれが「正道」だったはずなのです。




……で、ここからは、梅前お得意の「妄想」の世界。毎度スミマセン。

妄想すな! とお怒りの方は、ここから先は読まないでください。

なら書くな! っておっしゃる方もいらっしゃると思いますが、

でも書く。

だってここは私のブログ。私だけの妄想の園、「妄想日記」なんですもの。ホホホホホ。悔しかったらかかってらっしゃい。

で、どんなことを妄想したのかっちゅーと。


大津は、姉を天皇にしようと思っていたのではないか。


ぷぷぷ。
梅前さん、そりゃいっくらなんでもありえないって。

などという皆さん、そうですよね。気持ちはわかります。

でも書く。

あえて書く。


「なぜ大津はわざわざ伊勢まで行ったのか」

その答えがここにあるような気がするからです。

大津が伊勢まで行ったのは、普通、「姉に最後の別れを告げにいった」などという美しい言葉で説明されていますが、そんなんじゃないと思う、私は。

だって、謀反が失敗に終わるなんて、その時点では誰にもわかっていないはずでしょ?
大津の伊勢行きは、「最後の別れ」なんて言葉じゃ絶対に説明できない。

大事な謀反の前に、はるばる伊勢まで行くのには、何か理由があったはず。

それが、「大伯に即位をうながしに行った」のではないかと私は考えるのです。

母・大田皇女が生きていたら、天皇として即位できた。
ならば、早世した大田に代わり、彼女の娘である大伯に、その権利がある。

大津はそう考え、自らの謀反の旗印として、大伯をかつぎだそうとしていた。


……妄想です、妄想。

でもね。
ありえない話ではないと思う。
謀反を計画するにあたって、大津は、自分が天皇になれるとは思っていなかったはず。だって、鸕野讃良皇女には、大津より一歳年上の草壁皇子がいるんだから。草壁より上に立てる人物を、そして鸕野讃良に対抗できる人物を、かつごうとしていたと考えるのが自然。そして、大津にとってそれは、姉である大伯皇女以外にはなかった。

けれども、大伯は、大津のその申し出を断った。

なぜか。
その理由こそが、「この姉弟に存在した何か特別な事情」だったのではないか、と私は考えるわけです。

その「事情」が何だったのか、ここでは語りません。
いや、ちゃんと考えてることはあるけれど、これ以上語ると

妄想の上塗り

になっちゃいますしね。
ここから先は企業秘密。うふ。



貴種とされていながら、天皇として即位できない「事情」。
もしも母が生きていたとしても、それを阻んだ「事情」。

……その内容を、大伯は知っていた。
そして、それを弟に告げた。
失意のうちに伊勢を後にする大津。
もし本当にそうだったとしたら、大津の背中を見送る大伯の胸は、張り裂けんばかりだったに違いありません。

万葉集に残された、深い悲しみに満ちた6首の歌。
私たちの心をつかんで離さない、哀切な響き。
それは、単なる「姉弟愛」だけではない、もっと切実な悲しみ、つまり、自分が弟を死に追いやってしまったという「慟哭」が、刻み付けられているからではないでしょうか。




大和文化会「正倉院宝物にみる天平美」

9月の大和文化会例会は

「正倉院宝物にみる天平美─「正倉院展」展示品の紹介をかねて─」

奈良大学教授 関根俊一先生


の講演が行われました。

大和文化会毎年恒例、「おいでませ正倉院展へ」キャンペーンの一環ですな(笑)



今年の正倉院展は 10月28日(土)~11月13日(月)
奈良国立博物館で行われます。
皆さまどうぞお出かけ下さい。
京都からはぜひ「近鉄」で。(←と、近鉄にサービス)


 正倉院展1  正倉院展2



皆さまご存知の通り「正倉院」は、東大寺大仏殿の北側に位置する、もともとは東大寺に付属した「正倉」=「主要な倉庫」でした。

造りはかの有名な「校倉造り」で、一つの屋根の下に「北倉、中倉、南倉」の3つの収納スペースを有する「一棟三倉」です。
(中央の中倉は「校倉」ではなく「板倉」だそうです)

正倉院の創建は、檜の年輪年代法による測定により、天平勝宝4年(752)の大仏開眼会から天平宝字3年(759)の間頃と考えられています。
つまり今から1260年前!

そこに収められた宝物は、総件数が8935件、整理作業中のものも含めた総点数では数十万点ともいわれています。(端切れ、破片など含む)

土の中から出土したものではなく、「伝世品」として1200年以上前の、しかもこれだけの数の宝物が存在するのは、世界でも正倉院のみと言われています。
こうして伝世品として残ったのは、「火事で燃えず、倉が朽ちて倒れず、倉や箱が腐らず、厳重な管理によって盗まれず、そこから持ち出さず」といった奇跡が重なった結果です。実際、300メートルしか離れていない東大寺大仏殿は2度燃えていますから、それだけをとっても、正倉院に延焼しなかったのは「奇跡」というべきでしょう。
関根先生のお話によれば、正倉院の中身については、点検されない時代が長く続き、何が入っているのか一般の人々は知らなかったことが、結果的に腐食や盗難を防いだとのこと。確かに、「あそこに宝物がある」とわかってしまえば、悪い人は盗みに入りますもんね。

へええ、と思ったのは、中学校で習った「正倉院の『校倉造り』が、内部の湿度を一定に保ち、宝物の保存に役立った」という話、あれ、ウソなんですって。
調査の結果、校倉が開いたり閉じたりして湿気を調節することはなく、湿度の高い日は内部の湿度は高くなり、低い日には低くなることが確認されたそうです。
じゃぁどうして宝物が傷まなかったのかといいますと、倉が高床だったことと、それぞれの宝物が木箱に入れられていたかららしいです。
皆さん、大切なものは木箱に入れて保存しましょう。
木箱にも「足」がついてるとなおよし!らしいです。ご参考までに。


正倉院にはいろいろな宝物が納められていますが、その基礎となったのは光明皇后が献納した、聖武天皇の遺品です。
そのほかにも正倉院には、

東大寺関係の宝物(大仏開眼会、聖武天皇大葬などに使用したものなど。大風で破損した、法華堂近くにあった倉の収蔵品も含まれる)

東大寺造営のために置かれた役所(造東大寺司)関係の品

なども納められています。
俗にいう「正倉院文書」は、写経の練習などのために中央から造東大寺司に下げ渡された「反故紙」だったそうです。
あの当時、紙はとても貴重ですから、裏も使いなさい、ってことだったんですね。今でいうリサイクル。それが大切にされ1200年も伝わったんですから、なんかちょっと嬉しいような気がします。


そうした「リサイクル品」から、シルクロードをはるかにやってきた奇跡の品々まで、正倉院にはさまざまなものが納められています。
海外で作られたものは、その材質を調査すると、中国、インド、アフガニスタン、ペルシャにまで到るそうです。
ペルシャで作られた瑠璃椀(ガラス椀)が、割れることなくシルクロードを通り、海を越えて日本にもたらされ、さらに1200年保管されていたという事実は、まさしく「奇跡」という言葉でしか言い表すことができないように思えます。


皆さま、ぜひ秋の奈良へ、そして正倉院展にお出かけ下さい。
近鉄でね!(笑)


……ちなみに、「正倉院展無料招待券」の抽選、今年もはずれた。
今年こそ当たるんじゃないかと期待してたのに……。くっすん。
ちゃんとチケット買って行け、ってことかも?
いや、当たったら、もう行くしかない! 心も決まるかと思ったんだけども。
実は一度も行ったことないんです、「正倉院展」。
だってわざわざ行くには新幹線代が高すぎる……、宿泊費もかかるし。
いや、行きます。行きますよ、いつかは。
……いつか、近鉄に乗って。



別子銅山

「別子銅山」という銅山をご存知ですか?

あ、知ってる!

という方。
あなたは新居浜市出身。
あるいは、「住友」にお勤めですね?

そう。この「別子銅山」は愛媛県新居浜市にあり、その採掘は、最初の採鉱当初から一貫して住友家が行い、これによって住友は巨大財閥へと発展したのです。
なので、別子銅山は「住友発祥の地」であり「住友の聖地」とされていて、住友グループの新入社員には、山の中の採掘場まで険しい山道を登らされる研修があるとかないとか。


わが家は住友とは何の関わりもないけれど、行ってきました別子銅山。

JR新居浜駅からタクシーで20分ほど行ったところに、

「マイントピア別子」

という、別子銅山を紹介するテーマパークがあります。
そこでは別子銅山の歴史を学べたり、トロッコに乗って橋を渡り、火薬庫を利用して作られたという観光坑道を見に行ったりすることができます。

 マイントピア トロッコ
 トロッコ。

観光坑道は、トンネルの中。(当然だ!)
閉所恐怖症のワタクシ、錯乱気味となり、写真の一枚も撮れませんでした。
佐渡金山みたいに、当時の暮らしや坑道での作業がジオラマで再現されていたり、最初に銅を発見したおじさんが「採ったどー!」と喜んでいる人形が立っていたり、「地下1000メートルへ降りるエレベーター」が体験できたり(ホントは降りない。降りないんだけど、乗っただけで呼吸困難になった梅前)と、そりゃまあ、楽しい人にとっては大変楽しい、苦しい人にとってはあまりに苦しい観光坑道でございました。

「砂金採り体験」なんてのもできます。

ザルに砂を入れて、そこから金を選り出すんだけど、ザルの底に金が見えると、なんか「収穫の喜び」「一攫千金」ってな感じでとても嬉しい。
欲に目がくらみ、必死にザルを揺らす梅前。
結構採れました。
係の人が撒いてくれてるんだろうから、ホントはめったに採れないものなんだろうけど、それでもやっぱ嬉しい。
かたわらで、ちっとも採れなかった娘が不機嫌になっておりました。
ふふふ。才能が違う、才能が。いや、砂金採りの才能はいらんか。もっと別の才能が欲しかった。

お昼のあとは、マイントピアからマイクロバスにのって

「東平(とうなる)ガイドツアー」

に出発。
この「東平」、昭和の初めまで採鉱の中心となっていた場所で、銅山の関連施設とともに、約3800人が暮らす町があって、学校、病院、社宅に加え、娯楽場まであったといいます。

バスは細い道をうねうねと登っていきます。
銅が採掘されるだけあって、相当な山の中。
今は索道基地と貯鉱庫が残るだけで、学校や社宅などは基礎部分しか残っていません。こんな山の中に3800人が暮らす町があったなんて、とても信じられないような山深さです。

この銅山で鉱脈が発見されたのは1690年(元禄3)。
翌年、住友家が開坑を願い出、以来、1973年(昭和48)までの280年の間に、総量70万トンの銅を産出したといいます。
皇居前広場に立っている楠木正成像は、明治33年に別子銅山の銅を用いて造られ、献納されたものだそうです。


日本のマチュピチュ1

 東平に残る索道基地。
 山中に忽然と姿を現すこの石造りの建物は、

「東洋のマチュピチュ」

とも呼ばれているそうです。

ここに集められた鉱石は索道を使って麓まで運ばれ、からになった籠を利用して、帰りは東平で暮らす人々のための生活物資が上げられました。
それらの物資はインクラインを使って社宅の建つ場所まで上げられたそうです。

 別子銅山 インクライン
 インクライン跡。
 現在は急傾斜の階段になってます。


「東洋のマチュピチュ」っていうと「雲上の城」竹田城が有名だけど、ここもなかなかのものでした。
写真じゃわかりづらいけど、スケールが大きい。
下から見上げると、その大きさに圧倒されます。

石見銀山が2007年に世界遺産に登録されたこともあって、佐渡金山、大田銀山とともに「金銀銅サミット」なるものも開かれたことがあったそうだけど、世界遺産登録については、所有者である住友が消極的らしい。
住友の「聖地」だから、なんだって。
いいね。
それって、なかなかいいと思う。
その矜持を、これからも大切にしてほしいです。


巨大財閥の生成に寄与し、日本の近代化を支えた別子銅山。
ここで必死に生きた人たちがいたんだなぁ、と、山裾に広がる新居浜市街と、その向こうに広がる瀬戸内海を眺めながら、遠く思いを馳せました。

皆さまもぜひ一度。
東洋のマチュピチュ、別子銅山へおでかけ下さい。



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梅前佐紀子

Author:梅前佐紀子
「皓月 皇極・斉明天皇物語」

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