飛鳥学冠位叙任試験のお知らせ

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ばばーん!

今年もやります!

飛鳥学冠位叙任試験!

今年は 10月8日(日) (小雨決行・荒天時は10月22日に順延)

よい子のみなさん(小・中学生)には「小舎人編」が待ってるよ!

皆さまふるってご参加下さい!


私もお手伝いに……行けるかな?(ただいま調整中)

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はじめて学ぶ「磐井の乱」~上級編

「上級編」ってことなんだけれども。

「上級」と胸を張れるほどの知識をいまだ持ち合わせない私。

なので、今回もまた「あっちへうろうろこっちへうろうろ」って感じで進めさせていただきます。「上級」を期待した皆さま、ごめんなさいm(__)m


……で、前回まででちょっとこんがらかってきたので、基本に立ち返ってみることにいたしましょう。


【筑紫君磐井の乱とは】
継体21年(527)、九州の豪族・筑紫君磐井が起こした反乱。

【原因】
1.近江臣毛野が6万の兵を率いて行おうとした朝鮮半島出兵を、磐井がとどめようとしたという説。
2.朝鮮半島に影響力を有していた磐井を排除するため、毛野の軍が派遣されたという説。

※どちらが真実かは不明。
1に対しては、当時半島情勢はまだ切迫していなかったこと
2に対しては、磐井討伐軍の将軍に、毛野ではなく物部麁鹿火があらためて任命されたこと
などが反論としてあげられる。

【結果】
・筑紫君磐井は殺され、磐井の子は糟屋屯倉を献上した。
・その後、安閑朝にも磐井の勢力圏だった地が屯倉として中央に没収された。

【当時の状況】
・墳墓が巨大な前方後円墳であることから、磐井はかなりな勢力を有していたと推測される。
・その一方で、江田船山古墳(熊本県・5世紀後半~6世紀初)出土の大刀に雄略の名があることから、中央の力が九州(少なくとも熊本)まで及んでいたことは間違いない。


……まあ、こんなところなんですね。
東奔西走してみても、結局、着地点はウィキペディアとそう変わらず。
まあ、ええやないの! 古代史なんてそんなもの。
人があっと驚くような新説は、どこかに無理や錯誤を隠しているものなんざんす。
古代史においては、平凡な答えこそ素晴らしい。ブラボー。よくやった!(と勝手に自画自賛)


と、まあ、ここで終ってしまってはつまらないので。


ここは皆さん、「あっと驚くような」ことも考えてみようじゃありませんか。
だってここは「古代『妄想』日記」なんですもの。妄想してなんぼのもんなのですわ。それが私の使命。妄想がおいやなら学術書をお読みなさい。(←誰だ)


……ということで、真面目な方はここから先はご遠慮ください。


【妄想その1】
筑紫君磐井=邪馬台国後継説

そうきたか。とお思いの皆さん。
はい、そうです。古代史におけるアンタッチャブル、邪馬台国の登場です。

みなさんご存知の通り、邪馬台国の所在地については、
「畿内説」
「九州説」
のふたつがあります。

纒向あたりの発掘の成果もあって、最近は畿内説がぶいぶいいわせてますが、九州説もやっぱり捨てがたい。

だいたいやね、九州が最先端だったあの当時、なんであんな奥まった田舎に邪馬台国があるとか考えんの? 纒向? ちゃうちゃう、邪馬台国は九州やで。

と、なぜか怪しい関西弁のおじさんの言うとおり、当時の九州は先進地。そこに女王の治める国があったとしても不思議ではありません。

で、「空白の4世紀」を経て、邪馬台国(九州)の力は徐々に弱まり、磐井の統治する小国へと集約されていったという可能性もあります。
5世紀には、畿内に勢力を持つ「倭の五王」が登場しますが、これも、考えようによっては、朝鮮半島の国々に対してと同じように、九州に存在した勢力を牽制するため、ヤマト政権が中国のお墨付きを欲したものと考えられなくもありません。
つまり、ワカタケル大王(雄略=倭王武)の時代に至っても、邪馬台国の末裔である磐井の勢力は、あなどりがたく存在していたとも考えられるのです。

朝鮮半島に本格的に進出したいという野望を持つヤマト政権は、長年目の上のたんこぶとして存在してきた磐井の排除に踏み切った。
それが磐井の乱だった。
ところが、磐井の力と人望と失ったヤマト政権は、朝鮮半島での基盤を逆に失うことになった。

……というのも、ありえない話ではないと思います。


【妄想その2】
火の国裏切り説

『日本書紀』には、
近江臣毛野が新羅と戦うために6万の兵を率いて九州まで行ったところ、筑紫君磐井が、火(ひのくに・熊本周辺)と豊(とよのくに・大分周辺)をおさえてそれを阻もうとした。
と書かれています。

「火と豊をおさえて」ということは、火と豊はそれまで磐井の「領土」ではなかった、ととらえることもできます。

つまり、「火」と「豊」は磐井の「クニ」とは別の勢力として存在していて、乱にあたり、磐井は彼らと協力関係を結んだか、あるいは力でねじ伏せたかして自らの勢力圏に組み込んだ、ということではないでしょうか。

ここで気になるのは磐井が死んだ場所です。
『書紀』には、「筑紫の御井郡」と記されています。現在の福岡県三井郡とされているようです。地図で調べたところ、久留米に近い場所ですね。

もしも「火」(熊本)が味方なら、磐井はもっと南、あるいは有明海ぞいにまで逃げられたはずです。
でも、磐井は御井で死んだ。極論ではありますけれど、このことから、磐井は「火」の後ろ盾を失って死んだのではないかと考えるわけです。

前回もみた「江田船山大刀」には、「ワカタケル」の名が刻まれています。
江田船山古墳は、まさに熊本「火」の国に位置します。
「火」はワカタケル、つまりヤマト政権の勢力圏だった。それを磐井が乱にあたって自らの勢力圏に組み込んだ。そして、裏切られた。

もしかしたら磐井は、「大九州国」の建国を考えていたのかもしれません。
朝鮮半島に影響力を及ぼし、中国やヤマトと対等に通交を行う。そんな国がもしもできていたなら、その後の日本の歴史は大きく変わったことでしょう。

……ま、妄想です、妄想。


【妄想その3】
蘇我稲目活躍説

これはまた突拍子もないことを。
蘇我稲目ときたもんだ。
とのお叱りを覚悟しつつ。

ご存知の通り蘇我稲目は、蘇我馬子、蝦夷、入鹿と続く、蘇我4代の最初の人物です。
ところがこの稲目という人物は、あれだけの権勢を築いた蘇我氏の初代でありながら、どのようにして政治の中枢にのし上がったか、その経緯がまったく明らかにされていません。
彼が最初に『書紀』に登場するのは宣化元年ですが、このとき彼はすでに「大臣」で、それは政権のほとんどトップです。
それまでにどんな功績があって、どんな働きをして彼が「大臣」という地位にのぼりつめたのか、『書紀』にはなにひとつ語られていません。

稲目が大臣に任じられた年の5月、詔が出ます。

「筑紫の国は、遠近の国々が朝貢してくる所であり、往来の関門とする所である。このため海外の国は、海水の流れや天候を観測して貢を奉る。胎中之帝(応神天皇)から朕の世に至るまで、穀稼(もみだね)を収めて収穫したものを蓄えてきた。凶作の年に供えて賓客をもてなし、国を安んずるのにこれ以上の方法はない。
そこで朕は阿蘇仍君(あそのきみ)を遣わして、河内国茨田郡の屯倉の穀を運ばせる。蘇我大臣稲目宿禰は、尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の穀を運ばせよ。物部大連麁鹿火は、新家連を遣わして、新家屯倉の穀を運ばせ、阿倍臣は、伊賀臣を遣わして、伊賀国の屯倉の穀を運ばせよ。
官家を那津の口(ほとり)に造り建てよ。また、かの筑紫・肥・豊の三つの国の屯倉はそれぞれ離れて遠いところにあるので、運ぶのに遠い。必要な時に、それに備えることば難しい。諸郡に命じて分け移し、那津の口に集め建てて非常時に供え、民の命を守るべきである。早く郡県に命じて、朕の心を知らしめよ」と言った。


なんのことかと申しますと、那津(なのつ・福岡県)に「官家」を建て、各地の屯倉から穀物を集めよ、という詔です。
これは、金官国国王・金仇亥の新羅降下など半島情勢の緊迫化に伴う兵站の確保と理解されています。
気になるのは、ここに登場する人々です。

阿蘇乃君
蘇我大臣稲目宿禰
物部大連麁鹿火
阿倍臣

以上4名が、宣化に「屯倉から穀を運ばせよ」と命じられています。
阿蘇乃君。もしかしたら、磐井を裏切り、有明海を封鎖して磐井の退路を断った可能性のある人物です。
物部麁鹿火。言わずと知れた、磐井討伐軍の大将軍です。

そして宣化はさらに、

かの筑紫・肥・豊の三つの国の屯倉はそれぞれ離れて遠いところにあるので、運ぶのに遠い。必要な時に、それに備えることば難しい。諸郡に命じて分け移し、那津の口に集め建てて非常時に供え、民の命を守るべきである。

と言っています。
「筑紫・肥・豊」の屯倉の穀を、那津に集めよ、というのです。
それぞれ遠いところにあるので、などと理由をつけていますが、それは理由になりません。屯倉はもともと、ひとところにまとまってあるわけではありません。これはつまり、磐井の勢力圏だった土地に蓄えられた穀をすべて那津に集積することによって、その地の力を削いでおく、ということなのでしょう。

磐井討伐に功績のあった人物と並んで、ここに稲目の名前があがっているのはなぜなのでしょう。
大臣に任じられて以降、稲目の名前が登場するのはこれが最初です。つまりこれは、稲目大臣の「初仕事」なのです。

蘇我稲目が力を得たのは、古くからの豪族である葛城氏の娘を妻にしたからだという説があります。
そういった背景に加え、もしかしたら稲目は、磐井の乱に何らかの功績があったのではないでしょうか。

もちろん、単なる妄想にすぎません。
ここに登場する4人は、その当時、屯倉から穀を動かせるだけの力を持っていた人物の、単なる羅列なのかもしれません。現に物部麁鹿火は大連ですし、阿倍臣というのもたぶん、稲目が大臣になったのと同じ時に大夫という役職に就いた「阿倍大麻呂」のことと思われます。
けれども、もう一人の大連である大伴金村の名前がありませんし、「阿蘇乃君」という名前は唐突です。『書紀』には阿蘇乃君はここ以外には登場しません。

そう考えると、「この4人=磐井の乱の功臣」という説も、ありえないことではないような気もするのですが、いかがでしょう。


最後はとりとめのない妄想に走ってしまいました。

数々の妄想うずまく「磐井の乱」、これにてお開きとさせていただきます。おつきあいありがとうございました。




はじめて学ぶ「磐井の乱」~中級編

ここで、「磐井の乱」について、諸説をまとめておきましょう。

今までみてきたように、磐井の乱の全容については、わずかな史料から推察するしか方法がなく、これからめざましい発掘の成果や新資料の発見でもない限り、現在のところは「こうだった」と確定することはなかなか難しいのが実情です。

そうした中で、現在あげられているさまざまな説を、磐井の権力を小さく仮定したものから順番にあげていくと以下のようになります。

1.「磐井の乱」とは、地方豪族による 小規模な反乱伝承 を『日本書紀』が記載したものにすぎず、中央政権に影響を与えるものではまったくなかった。

2.ヤマト政権の支配下 にあった九州の豪族が、度重なる朝鮮半島出兵のための徴兵に業を煮やし、反乱を起こした。

3.一大勢力をもって九州を支配 していた磐井が、それまでの協力関係を放棄して、ヤマトとの対決の道を選んだ。

4.そもそも、中国史書に書かれた 「倭王」とは磐井のこと であり、それを打ち破ったヤマト政権がその歴史を奪い取った。


磐井の力を「弱→強」と並べていくと、このようになります。
まあ、1と4は少々極端ではありますけれど、そういう説もないわけではありません。
「磐井」と「ヤマト」の力関係は、このうちのいずれか(1.5~3.5の間くらい?)にあったことは間違いありません。
前回みてきた「戦の経緯」とともに、この力関係の強弱も、乱の真相を知るための大きな手掛かりとなりましょう。


古代に起こったことですから、完全に「こうだった」と断定することは不可能です。史料や状況証拠から推測していくしか手はありません。


まずは、現物として残っている史料から見ていきましょう。

「江田船山大刀」。

これは、熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から発見された記銘大刀です。
江田船山古墳は、前方後円墳で、近隣の古墳の中で最大のものですが、規模としてはそれほど「巨大」なものではありません。(推定全長62m、前方部幅40m、後円部径41m)

ちなみに磐井の墓は『筑後国風土記』に周囲約180m、墓域は約120mと記載されており、現在では福岡市八女市吉田の「岩戸山古墳」がそれに比定されています。(墳丘長135m、前方部幅92m、後円部径60m)

その江田船山古墳から発見された大刀に、「ワカタケル王の時代に典曹(文書関係の役人か)として奉事した牟利弖(ムリテ)が作らせた。(中略)刀を作ったのは伊太和(イタワ)、文を書いたのは張安である」との銘文が刻まれているのです。
ここからわかることは以下の通り。

・ワカタケル王(雄略)の時代、牟利弖が作らせた刀である。
・彼は典曹として奉事していた。
・実際に刀を作ったのは伊太和である。
・長安(名前からして渡来人)が文を書いた。

この「牟利弖」さんが「典曹として奉事」していたのが「ワカタケル王」だったのかどうかは不明ですが、当時こうした刀は呪力を期待されていたものなので、そのような大切なものに他の国の王の名を刻むとは思えません。
したがって、磐井本人ではないにせよ、熊本に本拠を置いていた首長の一人が、雄略を「王」と思っていたのは間違いないことです。
このことから、「仮説4」の「磐井こそ倭国の王だった」という説は否定されることになります。

(ただし、これはあくまでも銘文を「ワカタケル」と読んだ時の話。実物を見て見ると、ワ以下三文字はかすれて読み取れません。最後が歯(旧体字)なので、これはワカタケルだろうということになったのですが、それも稲荷山鉄剣に刻まれた銘文に「ワカタケル」の文字があって初めてわかったものです)

ところがその一方で、彼は「張安」という渡来人(たぶん)に作文を命じている。これはつまり、渡来人を使える立場にあったということで(それも漢文を書けるほどの学識ある渡来人を)、海外との交流がかなり活発であったということを示すとともに、渡来人を使える(というかものを頼める)のは大王でなくても可能だったことがわかります。

あるいは、この大刀は、ワカタケル大王本人が作らせ、それを典曹として奉事していた牟利弖に与えたものである可能性もあります。そうだとしたらなおさら、ヤマト政権の力はこの地方に強く及んでいたことになります。

この江田船山古墳からは、剣とともに冠や装身具も出土しています。
冠は金属製で、新羅あたりから多く出土する形をしています。このことからも、半島との交流がかなり盛んだったことがうかがえます。


次は磐井のお墓を見てみましょう。

さきほども書いたように、彼のお墓とされる「岩戸山古墳」は、かなり大きな前方後円墳です。
その大きさは、当時の大王の陵墓に匹敵するほどです。
このことから、磐井はすくなくとも「地方にあまたいる小豪族の一人」でなかったことは明白です。
したがって、「仮説1」の、磐井の乱は「地方豪族による小規模な反乱」という説は否定していいでしょう。

さらに、両槻会若頭・よっぱさんからのご教示よれば、飛鳥のいくつかの古墳で使われているピンク色の石棺は、宇土半島産の馬門のピンク石だそうです。
また、前方後円墳や九州系横穴式石室の築造が朝鮮半島にまでおよんでいたことから、古代九州は、朝鮮半島や畿内にまで多くの影響力を与えるだけの力を有していたことがわかります。

以上の「物的証拠」から推測するに、当時の磐井の力は、仮説1~4でいえば2と3のいずれか、あるいはその中間にあったといえるでしょう。


続いて、文書として残された史料を見ていきますが、前回・前々回でもお分かりのように、これもまたとても少ない。
なので、わずかな史料から推測していかねばならないことはここでも変わりはありません。

磐井の乱の経緯自体を書いた『日本書紀』の文章は前々回に記したので、今回はその前後から乱の本質を追い求めたいと思います。

『日本書紀』は、継体10年(516)に百済と高句麗の来朝を伝えてのち、継体21年(527)の磐井の乱勃発まで、韓半島の情勢を伝えていません。(継体17年、18年の百済王薨去と即位の記述は除く)
ところが、継体22年(528)に磐井の乱が収束してのち、半島は怒涛の動きを見せます。
百済と加羅の争いと、倭国によるその仲裁を恨んだ加羅と新羅の同盟、任那と新羅の争いと近江臣毛野による仲裁の失敗(継体23年)、さらには近江臣毛野の任那統治失敗と帰国途上の死(継体24年)、などなどです。

この混乱はつまり、「筑紫君磐井を失ったこと」が、倭国外交に多大な影響を及ぼした証とは言えないでしょうか。

磐井はそれだけの影響力を韓半島に有していた。
それを失った倭国外交は迷走状態におちいり、それまで足掛かりとしていた任那を失うことになった。


『書紀』に記された磐井の乱後の混乱は、そのことを語っているように思えます。


その一方で、安閑2年(535)に記された、全国26カ所に及ぶ屯倉設置の記事も大変興味深いものです。
このとき設置された屯倉には、播磨、備後、阿波、丹波などとともに、筑紫 の穂波、鎌、豊国の三崎、桑原、肝等、大抜、我鹿、火国 の春日部が含まれています。
磐井の息子が降伏にあたって糟屋屯倉を献上したということは前回述べましたが、この、安閑2年に設置された筑紫と火国の屯倉には、磐井の領地が多く含まれていたのではないでしょうか。
磐井が支配していた地を屯倉として召し上げ、彼の影響力を排除する。それが、この屯倉設置記事からうかがい知れるとともに、他の屯倉もそうした地方豪族支配の意図をもって設置されたものとの推測も成り立ちます。

継体晩年に勃発した磐井の乱は、そうした地方豪族反抗の最後の打ち上げ花火だったと同時に、安閑、宣化を経て、それからの天皇家の始祖ともなる欽明に至る、統一王朝の幕開けを告げるものだったのかもしれません。


次回は、磐井の勢力圏についての問題を取り上げたいと思います。
ううう。これは難しい。
若頭のご教示によれば、「火国は乱の前にヤマト政権と通じていた可能性」がある、とのことで、そうなると今回あげた江田船山大刀はまさしくその「動かぬ証拠」となりましょう。

う~~ん。素人には難しすぎる高山を登ってる気分。
靴擦れしたけど頑張るぞ。



はじめて学ぶ「磐井の乱」~初級編

というわけで前回は「磐井の乱」について

・近江臣毛野が新羅と戦うために6万の兵を率いて九州まで行ったところ、筑紫君磐井が、火(佐賀・熊本周辺)と豊(大分周辺)をおさえてそれを阻もうとした。

・そこで物部麁鹿火が磐井討伐の将軍として派遣され、勃発から1年半たってのち、磐井の反乱は鎮圧された。



というところまで学びました。

ここで素人として気になるのは、

なぜ「磐井討伐」の将軍は、近江臣毛野ではなく物部麁鹿火だったか

ということです。
だって、近江臣毛野は6万の兵を連れて九州まで行ってたはずで、そこに反乱が起こったなら、なぜその「6万の兵」を討伐に利用しなかったの?
って話ですよ。
なんで物部麁鹿火を大和からわざわざ派遣したのか。
討伐軍の将軍は近江臣毛野でいいじゃん。

で、将軍に任命された物部麁鹿火は、大和から兵を連れて行ったのか。
いや、連れて行かなかったはずはないと思う。だって、「討伐軍」だもん。
だとしたら、

「6万の兵」はどこへ消えたのか。

そのあたり、いくら調べてもよくわからない。


そもそも、近江臣毛野が率いたという6万の兵たちが、なぜ動員されたかも謎です。
『日本書紀』には、新羅に侵略された任那の地を回復するために動員されたと書いてあるけれど、前回も述べたように、新羅の南加羅侵攻は磐井の反乱以後のこと。ならば、毛野は何のためにそのような大軍勢を率いて九州へ向かったのか。


近江臣毛野という人物は、磐井の反乱が鎮圧された翌年、任那に遣わされています。
たぶん彼は、現代で言うところの外務官僚のような仕事に従事していたと思われます。
「駐・任那大使」的な。
だとしたら6万の兵というのは、任那において彼の身を守るための、護衛の兵だったということも考えられます。
(少し多いような気もするけど)

ところがこの駐任那大使、書紀での評判は散々です。
任那の地を侵略しないよう新羅に言い含めようと新羅と百済の「王」を呼び出し、両国の王が来ない(当然かも)のを知るや、「それならうちの王(継体)の勅は伝えないもんね」とヘソを曲げて、やってきた新羅将軍を怒らせ、近隣の4つの邑の略奪を許してしまったり、争いごとの仲裁をする際、裁判と称して熱湯の中に手を入れさせ火傷させたりして人民を悩ませたり、果てはそれを継体に告げ口されて、諫めるための使者がやってくると彼を城に監禁したりと、結構なやりたい放題。
で、ようやく帰国命令に従い、もどってくる途中、対馬で病を得て死んでしまう。

近江臣毛野については、こうした「散々な評判の外務官僚」の伝承とともに、前回も述べたように「筑紫君磐井と『同じ釜の飯を食った』仲」だったという記述が日本書紀に残っています。

「同じ釜の飯を食った仲」であることについて、河内春人先生は、稲荷山鉄剣に残されている「仗刀人」、つまり大王の親衛隊のような立場に地方豪族がついていたことから、磐井と毛野もそうした立場で中央に出仕していたことがあったのではと推察されています。
一方、古代史研究仲間のれんしさんは、磐井と毛野は「対朝鮮外交の場面でともに倭王権の代表として従事したことがある」ことが「同じ釜の飯」という表現になったのではないかというコメントを寄せて下さいました。

どちらなのかは歴史の闇の中だけれども、確実なのは

・近江臣毛野と筑紫君磐井は顔見知りだった。
・磐井が「お前ごときに」というような言葉遣いをしているからには、6万の兵を率いて任地に向かおうとする外務官僚・毛野と磐井の立場は同じか、あるいは磐井のほうが上だった可能性がある。


という2点。

さてさて、ここからは私見。眉に唾をつけてお読みくださいませ。

前述したように、「磐井のほうが毛野より立場が上だった」のだとしたら、磐井の乱は、のちの百姓一揆のような、「かよわき人々が抑圧に耐えかねて立ちあがった」という図式ではまったくない。
れんしさんの推測をもう少し飛躍させてもらうならば、毛野と磐井の争いは

韓半島における主導権争い

だった可能性もあります。
毛野と磐井、どちらが「倭国代表」として任那に根を張るか。
それは、韓半島南部から産出する「鉄」をめぐっての利権争いだった可能性も捨てきれません。
磐井と毛野、それぞれが任那地域に進出し、それぞれの立場をもって新羅や百済と対峙していたのかもしれません。


両槻会のよっぱさんからいただいたコメントによれば、

・先に攻撃を起こしたのは官軍で、これを迎え撃ったのが磐井
・中央から独立しようとしていた磐井を、継体天皇により安定した大和政権が討伐した


という説があるそうです。
大和政権側が、磐井の勢力伸長と韓半島への影響力を排除したいと願っていたなら、「6万の兵」の動員もうなずけます。
6万の兵は、対新羅ではなく、もとから磐井を討伐するために派遣された兵だった、と。

よっぱさんのコメントでは、さらにいろいろご教示いただいたので、そのあたりはまた次回。
ううむ。磐井の乱、奥深し!



はじめて学ぶ「磐井の乱」~基礎編

「磐井の乱」というものについて、今まで深く学ぶのを避けてきました。

まあ、古代史マニアとしては、一応、

「継体天皇の時代、九州に勢力を持っていた豪族・筑紫君磐井が、新羅をバックに反乱を起こし、鎮圧された」

という程度のことは知っています。
でも、それ以上は知らない。
今まで学ぶ機会がなかったというか、そのあたりがすっぽりと抜け落ちていたというか、磐井の乱について詳しく知るためには、当時の半島情勢についてもしっかりと頭に入れておかねばならず、

そりゃーちょっとめんどくせーなー

と、後回しにしてしまっていたわけなのでゴザイマス。(こらっ!)


ところが前々回、九州は「朝倉」について書いたところ、ブログ仲間のれんしさん、両槻会若頭のよっぱさんから相次いでツッコミ……、じゃない、温かい励ましのお言葉をいただきまして、

これはいつまでも「磐井の乱」から目をそむけていてはいけないのでは

と深く反省した次第。


そこで今回は

はじめて学ぶ「磐井の乱」。

古代史に興味がない方も、「へ? 磐井? 何ソレ」な方も、梅前とともに一から学んでみようではありませんか!


さて、知らないことを学ぶとなったら、近頃の方はまずウィキペディアを見るらしいですが、私は違うよ?
原点から始めるのが私のお作法。
古代のことを知る場合、遠回りのように見えて、実はこれが一番確実な方法なのです。いや、マジで。
ご存知の通り、古代史は通説異説が百花繚乱。ネットで調べているうちに思いもよらぬ「トンデモ説」に足を突っ込んでいたりして、戻ってこられなくなったりします。
それを防ぐためには、まずは一次史料でしっかりと足場を固め、いつでもそこに立ち戻る態勢を整えておくことが大切。
これ、意外と重要なんです。


というわけで、まずは大御所『日本書紀』から。

「磐井の乱」が起こったのは、継体21年。日本書紀の紀年を信頼するなら西暦527年ということになります。

その年の6月3日条。

 近江毛野臣が兵6万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅(金官国とその周辺)・■(←口へんに彔)己呑(とくことん・慶尚北道達域郡慶山周辺との説あり)を奪い返し、任那に合わせようとした。
 このとき、筑紫国造磐井が、ひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして実行しないうちに年を経ていた。事の成りがたいのを恐れて、つねに隙をうかがっていた。
 新羅はこれを知って、ひそかに貨賂(まいない)を磐井のもとへ送り、勧めるには、毛野臣の軍を防ぎ止めよと。
 そこで磐井は、火(ひのくに・肥前と肥後のこと)豊(とよのくに・豊前と豊後)のふたつの国をおさえて、職務を果たせぬようにした。外は海路を遮断して、高麗・百済・新羅・任那などの国が年ごとに貢物を送る船を欺き奪い、内は任那に遣わされた毛野臣の軍をさえぎり、無礼な揚言をして、「今でこそお前は使者などになっているが、昔はわが仲間として肩を擦り肘を擦りつつ同じ器のものを食った仲だ。それが使者になったからといって、俺を服従させようとするのか」と言って、戦って従わなかった。驕り高ぶり、血気盛んであった。
 そんなわけで毛野臣は前進を阻まれ、中途で停滞してしまった。天皇は大伴大連金村と物部大連麁鹿火、許勢大臣男人らに詔して「筑紫の祝いが反乱を起こして、西の国をわがものとしている。今誰か将軍となるものはいるか」と言った。大伴大連ら皆が「正直で勇敢で、軍事に通じているのは今、麁鹿火の右に出る者はおりません」と言った。天皇は「よし」と言った。


……読み飛ばしたでしょ?
ね?
めんどくさいよね。こういうの。

要は、

・近江臣毛野が、新羅と戦うために6万の兵を率いて九州まで行った。
・すると、新羅から賄賂を得ていた筑紫君磐井が、火(今の長崎、佐賀、熊本あたり)と豊(大分あたり)をおさえて近江臣毛野を阻んだ。


ということですな。


続く8月1日条。

 詔して「ああ、大連よ。磐井が叛いている。汝が行って討て」と言った。
 物部麁鹿火大連は再拝して、「磐井は西の果ての心のねじくれた男です。川に阻まれていると言って朝廷に仕えず、山が峻険なのをいいことに乱を起こしました。徳をやぶり、道に背いたのです。侮り驕って、自分を賢いと思っています。昔の道臣(大伴氏の祖)から今の室屋に至るまで、帝のために戦ってきました。民を苦しみから救うことは、昔も今も変わりません。ただ天の助けを得ることは、臣(自分)が常に重んじるところです。よく慎んで討ちましょう」と言った。
 詔して「すぐれた将軍は出陣にあたって恵みを施し、恵み、思いやりをかける。そして攻める勢いは河の怒涛の如く、戦うこと疾風の如くである」と言った。さらに詔して「大将は民の命をつかさどる。国家が滅びるのも滅びないのも大将次第だ。尽力せよ。謹みて天誅を加えよ」と言った。さらに天皇は、みずから斧鉞(まさかり)を取って大連に授け、「長門から東は朕が統制しよう。筑紫から西は汝が統制し、賞罰も思いのままに行え。いちいち報告しなくてもよい」と言った。



はいはいはい。ここもまた読み飛ばした方。
さもありなん。読み飛ばしてオッケーです。

ここは

・継体が物部麁鹿火に磐井討伐を命じた

ってことですな。

この条は、中国の古典をもとに、人名や地名を入れ替えて書いたらしく、そのおかげで物部麁鹿火が大伴室屋をほめちぎる、という妙な展開になってます。
(いや、その部分は大伴室屋の言葉なのだという考え方もあります。『古事記』には、磐井討伐に派遣されたのは物部麁鹿火だけではなく大伴室屋も派遣されたとの記述があるので)
確かに、借り物の文章だけあって、ちょっと大げさ?
「攻める勢いは河の怒涛の如く、戦うこと疾風の如くである」なんて、「風林火山かっ!」って感じです。

まあ、ここになぜ、「よそから借りてきてまで大げさな文章を挿入しなければならなかったのか」という問題はありますね。


翌年528年(継体22)の11月11日条。

 大将軍・物部大連麁鹿火は、賊の首魁・磐井と、筑紫の御井郡(現在の福岡県三井郡)で交戦した。領軍の軍旗と軍鼓が向かい合い、埃塵は相乱れた。互いに勝機をつかもうと必死に戦い譲らなかった。
(物部麁鹿火は)ついに磐井を斬り、完全に反乱を鎮圧した。


12月条。

筑紫君葛子は、父の罪によって誅されることを恐れて、糟屋屯倉をたてまつり、死罪を免れることを請うた。


つまり

・大将軍として九州へ向かった物部麁鹿火は、筑紫の御井で磐井と戦い、死闘の末、磐井を斬殺、反乱を鎮圧した。
・磐井の子である葛子は、糟屋屯倉を献上して死罪を逃れた。



磐井の乱発生が527年6月で、鎮圧されたのが528年11月ですから、要するに「磐井の乱」は発生から一年半もかかってようやく鎮圧されたということがわかるわけです。


次なる「原点」、『古事記』を見てみましょう。

『古事記』継体天皇段

この御世に、筑紫君石井(いわい)は、天皇の命令に従わず、礼を失することが多かった。そこで、物部荒甲大連と大伴金村連の二人を遣わして、石井を殺した。


……『古事記』はこれだけ。
んまぁ。 なんて簡潔な。



以上、『日本書紀』と『古事記』から梅前が理解したことは

・527年6月、近江臣毛野が、新羅と戦うために6万の兵を率いて九州まで行ったところ、筑紫君磐井が、火(ひのくに・今の長崎、佐賀、熊本あたり)と豊(とよのくに・大分あたり)をおさえて近江臣毛野を阻んだ。

・8月、継体は物部麁鹿火を大将軍に任命し、鎮圧に差し向けた。

・激しい戦闘が繰り広げられたが、翌年11月になってようやく乱は鎮圧された。磐井は斬殺され、磐井の子は屯倉を献上して許しを乞うた。



ここまでよろしいですか、皆さん?

これだけ見ると、単なる「地方豪族の反乱と鎮圧の物語」です。
ところがやっかいなのは、そこに韓半島情勢がからんでくること。

そもそも、「近江臣毛野」がなぜ、6万もの兵を率いて九州へ行ったのか?

「近江臣毛野は、新羅に破られた南加羅・■(←口へんに彔)己呑(とくことん)を奪い返し、任那に合わせようとした」

と『書紀』は書いています。つまり、新羅が南加羅と■(口彔)己呑を奪ったので、それを奪い返すために兵を九州へ向かわせた、ということです。
ところが。
岩波文庫版『日本書紀』校注によれば、

「新羅が南加羅を奪ったのは毛野の出征以後のことで、この記述には錯誤がある」

はい?
……なにそれ?

つまり、近江臣毛野が九州に向かった時点で、南加羅は新羅に奪われていなかった、ということ?

じゃあ、近江臣毛野は 何のために 6万もの兵を率いて九州に行ったの?


……ここらあたりから、単純明快な「地方豪族の反乱」だったはずの「磐井の乱」は、何かきな臭い雰囲気を漂わせ始めます。


七転八倒の「磐井の乱」、次回に続く。



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