両槻会第61回定例会報告 その3

というわけで前回の続き。

飛鳥らしい風景の中を、高松塚古墳へと向かいます。

私がこの古墳を訪れるのは二十年ぶり。
昔はもっと鬱蒼とした森の中にあったような気がしたんだけど、すっかりきれいに整備されて、今はこんな感じになってます。

  高松塚古墳


午前中の五条野丸山古墳、植山古墳とはうってかわって、観光名所、それも土曜日とあって結構な人出が。
まあ、ここを見ずして飛鳥に来たとは言えないわけで、飛鳥応援大使としては嬉しい限りです。
研究会とおぼしき他のグループともすれ違ったりしました。

高松塚古墳の説明担当は、学生のラストを飾る川村くん。

古墳を背に、みんなの前で堂々たる説明っぷり。
言いたいことを度忘れして清水先生に耳うちしてもらうあたりもかわゆい。

他の学生さんたちが4回生や院生なのに対し、この川村くんはなんと2回生。
今回の企画にあたり、参加したいと自ら手を挙げたらしい。
それでこの見事な説明。 末恐ろしい人材です。
同い年のわがムスメと引き比べ、ちょっとボーゼンとなってしまう。

でも川村くん、事前リハーサルはさらに上手だったとか。
それに比較すると出来が悪かったらしく、ちょっと落ち込んでるふうではあったけど、私からしたら充分上手。
いや、「立て板に水」でペラペラと説明するより、かえって説得力があったと思う。
いろいろなことをふくめて、これも経験といったところでしょうか。


川村くんの説明のあと、「しゃべりの最終兵器」、今回は一般参加のはずのO氏が登壇。
古墳の壁画に描かれた「白虎・青龍・朱雀・玄武」が、それぞれ東西南北を示していて、「玄冬・青春・朱夏・白秋」と人生の季節も示すこと、さらには「黒・青・赤・白」の4色があてられて、今も大相撲の土俵の上に吊るされた屋根の四隅にそれぞれの色の房が下げられていることなどなど、息をもつかせぬ見事な話術でお話してくださいました。
さらには、その4色に、「天」の黄色を加えて5色とし、それが「火、水、木、金、土」の陰陽五行になったというお話も。たしかに、四方の壁の上を覆っているのは「天」ですもんね。
それに「月と日」を加えて「月火水木金土日」の一週間になったのです。遠い昔の古墳に残された壁画と、私たちの現在は、こうしてつながっているのですね。という、まとめの見事さ。 恐れ入りました。
すっかり聞き入ってしまい、写真を撮るのも忘れてしまったよ。
学生さんたちには見事なお手本になったんじゃないでしょうか。

このお話で、黄色がなぜ「皇帝の色」とされていたのか、すんなりと理解できました。「天」を示す色だったんですな。いやはや、ブラボー。

感激のあまり、そのあと厚かましくもO氏にまとわりつくワタクシ。(若い頃は恥ずかしくてできなかったことも、オバサンになった今はできるわけよ。年取るのも悪くないぞ!)
おかげでいろいろなお話が聞けて、大変勉強になりました。
特に、キトラや高松塚に壁画があるのは、「風水にかなっていなかった」からではないか、という仮説はとても興味深く拝聴しました。風水にかなった土地に造られた古墳には壁画の必要はなかった、かなっていなかったからこそ壁画を描いて四方を鎮めようとした……。魅力的な説じゃありませんか。
ま、O氏は「てな話もありますな」なんて流しておいででしたが。
そういう、「てな話」をこそ聞きたいんです! 誰にも言いませんから!(って、ここで言うとるやん!)



休憩所でしばしの休憩を取ったあと、キトラ古墳にむけて出発。

立派に整備された広い道を、6月とは思えない暑い太陽に照らされつつ歩く。
古都飛鳥保存財団のI氏によれば、

「昔はもっと細い道でした」

とのことで、そのほうが断然風情があったのにな~、なんて思う。
ま、細い道だと観光バスは入れないしね。
事故でもあったら大変だし。
そのあたり、観光と保存をどう両立させるかという問題で、私ごとき人間がとやかく言うことではないんだけれども。
……ま、いいや。



で、まずはキトラ古墳の近くに昨年オープンしたばかりの「四神の館」を見学。
ここにはキトラ古墳の詳しい説明や模型、発掘の経緯説明や映像なども用意されていて、よりリアルなキトラ古墳を体験することができます。


私は去年応援大使の交流会の時にさんざん見まくったので、今回はゆるりと見てまわり、ベンチでクーラーの風を堪能しました。
やってきた能勢さんや山本くんをつかまえて、あれこれとプライベートを聞き出したりして。
二人とも、おばちゃんの興味本位で不躾な質問にも笑顔で答えてくれる。
ホント、みんな真面目できちんとしていて感じがいい。
私が学生の頃はこんなちゃんとしてなかったよなぁ~、と遠い目になる。



 キトラ古墳
 すっかりきれいに整備されたキトラ古墳。
 

本日最後の古墳、キトラ古墳の説明をして下さるのは、今日活躍してくれた学生たちの総元締め(?)、帝塚山大学教授・清水先生。

キトラ古墳は、高松塚と石室のサイズがほとんど同じで、そのことから、同じ集団が石室を造ったと思われ、造られた時期も近いと考えられること。
ところが、石室のサイズはほぼ同じなのに、墳丘は高松塚の半分くらい(高松塚直径23m、キトラ直径13.8m)しかない。そのことから、高松塚の被葬者のほうがキトラの被葬者より格が上と推測されること。

……などなど、さすが先生。

「事実から推測されること」を、客観的に、わかりやすく、皆の前に提示する。
これがプロ。
すごいなぁ。学生のみなさんも、さぞかし勉強になったことでせう。



キトラ古墳から、近鉄の壺阪山駅へ向かって歩く。

壺阪山駅前の広場で、解散式。

今日を無事にやりとげた学生さんたちが一人づつ挨拶。
ほっとしたような満面の笑みの一方で、力を出し切れなかったという悔しげな表情も。
ああ、いいなぁ、と思う。
「今日のオレ、百点満点。すげーうまくなかった?」
なんて奴は、そこから先には一歩も進めない。
「失敗した~、ちくしょ~、今度こそ!」
という気持ちこそが進化の原動力になる。
これから先、どんどん前に進んでいってくれそうな若者たちが、まぶしい。
まぶしくて、うらやましい。
これから彼らにはどんな未来が待っているんだろう。


で、橿原神宮前で浴びるようにウーロン茶を飲んだあと(お酒は弱いんでね、そのあと長旅だし)、7時半の近鉄特急に飛び乗り、京都から新幹線でお江戸へ帰還。
帰宅は深夜。
駅から家への帰り道、夜空を見上げながら、

ああ、ホントに幸せな一日だった

という思いをかみしめる。
自分自身が健康で、家族も健康で、時間的な余裕があって、早朝から深夜まで出かけられる環境があって、家族の理解があって、受け入れてくれる仲間がいて、それらが全部そろって、今日という一日があった。
これって、奇跡に近いことだよね。
なんか、いろいろなことに、感謝。

みんな、ほんとうにありがとう。
楽しく、そして幸せな一日でした。




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両槻会第61回定例会報告 その2

両槻会第61回定例会報告 2回目は、

「天武持統陵」から。

菖蒲池古墳に続き、この古墳の説明も、帝塚山大学大学院生の山本くん。
まずは陵の裏手にまわり、そこで陵の高さを実感させてくれる。
確かに、正面からだと高さはわかりづらい。
山本くん、ナイスです。

正面の広場で、この古墳の概要や由来、盗掘にあったことなどの説明を受けます。
この古墳の場合、被葬者に関しては、もう「天武天皇と持統天皇」と決まっているので、私も余計な妄想をせずに済みます。
いや、「なんで持統だけ火葬?」「ホントは仲悪かったんじゃね?」とか考えちゃうんだけども。



続きまして「鬼の俎・雪隠古墳」。

 19 鬼の俎(
 「鬼の俎」。

 23 鬼の雪隠
 「鬼の雪隠」。

「俎」と「雪隠」は30メートルくらい離れた場所にあります。


恥ずかしながらワタクシ、鬼の俎と雪隠が「古墳」だったと知りませんでした。
亀石やなんかと同じ、単なる「謎の巨石」かと思ってたよ。お恥ずかしい。
ま、一般人はこんなもんでしょう。

で、ここの説明をしてくれるのは4回生の松山くん。
先ほどまでタイムキーパーとして能勢さんや山本くんを支えていた松山くん、達者な説明ぶりです。通りかかった観光客も足をとめて聞き入るほどでした。

松山くんの説明によれば、俎は古墳石室の底石で、雪隠はその上にかぶせるドーム状の蓋石らしい。
わざとか事故かはわからないけど、蓋石が坂の下に落っこちちゃって、重すぎて引き上げられず、そのまま放置されたようです。

さらに、この古墳も双墓の可能性があるらしい。
もうひとつの「俎」が、今の鬼の俎の東側にあって、明治時代に発見されたんだけど、耕作するのに邪魔だってんで小さく割って庭石にしたらしい。(こ、このバチ当りがっ!)その石は今、橿原考古学研究所付属博物館の屋外に展示されているそうです。(今度見に行こうっと!)

で、この双墓には誰が葬られていたかと申しますと、「斉明天皇と彼女の孫の建王」らしいです。
斉明天皇は8歳で亡くなった建王の死に慟哭し、必ず自分と一緒に葬れと詔したとされています。
斉明天皇はその後別の陵(牽牛子塚古墳か)に改葬されたと言われているので、被葬者が彼女だとすれば、この古墳は彼女の初葬墓だったことになります。

それにしても斉明天皇。
「鬼」に縁がありますな。
『日本書紀』斉明7年(661)には、斉明天皇の葬儀の際、「山の上に鬼が現れて喪の儀式をのぞき見ていた」ことが記されています。
『日本書紀』斉明元年(655)には、「空中に竜に乗った者が現れた」とあり、『扶桑略記』はこれを「蘇我大臣の霊」としていて、「霊=鬼」だった当時の認識から考えれば、これも「鬼」の一種(?)と言えそうです。

その彼女が最初に葬られたと推測されるお墓が、のちの世のこととはいえ、「鬼の俎・雪隠」と呼ばれることになったとは。
タカラちゃんこと斉明天皇は、よほど「鬼と縁のある女」と申せましょう。



さてさて、そんなこんなに思いを馳せながら、次の欽明天皇陵に向かって歩いていたら、畑の中にこんもりと盛り上がった場所が。

あれが「カナヅカ古墳」です、との説明あり。

 24 カナヅカ古墳

あの、単なる盛り土にしか見えない場所が、「古墳」?
まったく、飛鳥は油断がならない。

このカナヅカ古墳と鬼の俎・雪隠古墳、天武持統陵、そして欽明天皇陵は、東西一直線上に並んでいるとのこと。
天武持統陵は、藤原宮の中心線を南に延ばした場所に造られているのですが、東西方向の位置を決めたのは、欽明天皇陵から延びるこのラインだったようです。

……ということは、このライン上に陵を造った人たちは、深い血縁関係で結ばれてるってことで。
カナヅカ古墳の被葬者は吉備姫王(斉明天皇のお母さん)とも言われているので、このライン上には

吉備姫王(母)
  ↓
斉明天皇
  ↓
天武天皇(子)

が並んでいるってわけ。
欽明天皇陵から並べたのは、「自分たちこそ欽明から続く正統な王位継承者だ」と主張する意図があったのでは?
などと、またまた妄想爆発なワタクシ。


暑い陽ざしの中、欽明天皇陵に到着。

ここは両槻会の御大・風人さんが、説明に登場。
身ぶり手ぶりを交え、この陵についての基本的な説明から始まり、陵の位置や形、発掘調査などをもとに導き出された私見まで披露されて、非常に「お得感」あふれる説明でした。学生さんたちも勉強になったことでしょう。


欽明天皇陵近くの「猿石」も見学。

 27 猿石1   28 猿石2


昔来たときはもっと薄暗い中に置かれていた記憶があるんだけど、なんかちょっとイメージ違ってた。
記憶があてにならないのか、それとも整備されたのか。
きっとその両方。

猿石は江戸時代(元禄年間)に付近の水田から出土したそうですが、それ以前の平安時代にも、『今昔物語集』に、欽明天皇檜前ノ陵に「石の鬼形共」があると書かれているそうです。

ありゃりゃ。 ここにも「鬼」。

猿石の置かれている場所は吉備姫王のお墓として治定されているらしいけど、吉備姫王は斉明天皇のお母さん。
お母さんまで「鬼」に関わりがあるとは!
(いや、吉備姫王のお墓はさきほどの「カナヅカ古墳」という説もあるけど)

「鬼」みたいに恐ろしい母子だった、とか?
鬼っつったら、キビとタカラでしょ、みたいな?

冗談はさておき。
道教との関連などが頭をよぎります。
「鬼道を能(よ)く」したのは、卑弥呼か。


で、再び歩き出したら、風人さんが「はい、皆さん、ちょっと止まってくださ~い!」と言うので、前回の能勢さんのような「秘密のスポット」かと思ったら、

「ここから先、しばらく自動販売機ありません。必要な方はここで飲み物を買って下さい」

とのこと。
いや、それ、大事。暑かったし。

それにしてもこういうところ、きめが細かい。
朝、岡寺の駅で風人さんに「ここのトイレ逃したらお昼までトイレありませんよ」と言われたんだけど、あそこで行っておかなかったらあぶなかった。古墳の説明聞くどころじゃなかったかも、と思うと風人さんには感謝せずにはいられません。いや、ホントに。

ペットボトルのお茶をがぶがぶと飲みながら、いいお天気の飛鳥を歩く。


というところで、続きは次回。


「その2」の前に 「その1」の訂正

両槻会第61回定例会報告 その2

の前に!

前回の「その1」に関して、わが師匠・両槻会事務局長の風人さんからご指摘をいただきましたので、いくつか訂正をさせていただきます。


五条野丸山古墳について、
「その大半が五条野町なので、最近は「五条野丸山古墳」と呼ばれているんだとか。」

と書きましたが、

面積としては、大半が大軽町に属します。五条野町に入るのは、後円部のみで、ここが陵墓参考地になっているために五条野丸山古墳と呼ばれています。主体部が属するのが五条野町だということです。

とのご指摘をいただきました。
「見瀬町は一部分だけ」というところを「= 大半が五条野町」と勘違いしてしまったようです。
相変わらずうかつな耳じゃのう。 成敗してくれるわ。


それからそれから。

「『小山田遺跡』が『小山田古墳』に『昇格』した」

と書きましたが、

小山田遺跡→小山田古墳ではなくて、小山田遺跡の古墳部分を小山田古墳と名付けたのです。この二つは、現在も並列して存在しています。

とのこと。
つまり、小山田遺跡の中に小山田古墳が含まれるってことで、小山田遺跡が丸々小山田古墳になったというわけではないそうです。
これ、誤解してました。
新聞だとそんな感じでしたよね?
違うんですって。

以上2箇所、訂正いたします。
ご指摘下さった風人さん、誠にありがとうございました。今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!


こうやってご指摘いただくのはとても嬉しいです。
間違っていても、「これ、違うよね」と見過ごす人が多い中、きちんと教えて下さる方って、なかなかいないと思います。
ホント、ありがたい。

私の言ってることや、書いてることって、いわば「素人代表」だと思うのです。

私の間違いはみんなの間違い。
(そうじゃないって! アンタだけだって! という声が聞こえてきそうですが)

なので、これからも「素人代表」として、間違っていきたいと思っております。
皆さま、お手数とは思いますが、間違いを見つけたらどうかご指摘くださいませ。
そうしてくださったらとても嬉しいです。




あとね~~、これはご指摘ではないんだけれども。

「植山古墳」の柱列が135度に屈曲してて、それって「八角形」の内角じゃないの?
という前回の記事に対し、、風人さんが、「柱列をもとに八角形を描いたらこうなります」という地図を送ってくれた。
風人さんが作ったものなので、ここには出せないけれども。
(八角形描いたらどうなるの?と思いつつ、自分じゃ描けずにいたのでとてもとても有難い!)

それを見ると、植山古墳はその八角形の上半分(?)に寄っちゃってるんですよね。
これはどういうことなのか。
柱列は古墳の範囲を示したものではなかったのか。
135度に屈曲しているのは偶然で、八角形ではなかったのか。
それとも?
八角形の下半分にも何かがあったとか?

謎は深まるばかり。
深まれば深まるほど楽しい!



……以上、前回の訂正と追記でした。

ご指摘下さった風人さんに、心より感謝申し上げます。
今後とも添削よろしくお願いしま~す。





<追記>

風人さんから、植山古墳の「八角形」の、掲載可能な概略図を頂戴しました。
掲載許可に加え、加工許可もいただいたので、掲載&加工したい放題でお送りします。


  植山古墳八角形 (3)
 北側にある八角形が、風人さんが描いて下さった、植山古墳上の柱列を延長して八角形に復元したもの。


  拡大図がこちら ↓

  植山古墳八角形 (2)

  ね? 北に寄っちゃってるでしょ? 不思議。


 ちなみに植山古墳は、現在立ち入ることはできないそうです。

公園整備してましたけど……、キトラ周辺みたいな「大規模造成」されないことを祈るばかりです……。


両槻会第61回定例会報告 その1

先週土曜日(6月3日)、両槻会第61回定例会に参加してきました。

今回は、

飛鳥時空旅 ―古墳編―

と題した、飛鳥周辺の古墳をめぐる一日。
毎年恒例、帝塚山大学清水ゼミとの共催イベントです。

今回訪れるのは

・五条野丸山古墳
・植山古墳
・小山田古墳
・菖蒲池古墳
・天武持統天皇陵
・鬼の雪隠・俎古墳
・欽明天皇陵
・高松塚古墳
・キトラ古墳

という、超豪華なラインナップ。
しかも、それがほぼ古い順に並んでいるという。
さすが! さすがだ、両槻会!
かの有名な石舞台古墳が入っていないあたりも「通」っぽい。

それぞれの古墳の説明をしてくれるのは、帝塚山大学・清水ゼミの4人の学生さんたち。
どんな説明をしてくれるのか、期待が高まります。


早起きをして新幹線に飛び乗り、近鉄に乗り継いで10時ちょうどに岡寺駅に到着。
出発式のあと、早速歩き始めます。

まず向かうのは「五条野丸山古墳」。

以前は「見瀬丸山古墳」と言われていた古墳ですが、見瀬町にかかるのはほんの一部分で、実はその大半が五条野町なので、最近は「五条野丸山古墳」と呼ばれているんだとか。
墳丘の上に立ち、目の前に広がる雄大な風景を堪能しながら、この古墳の大きさが近頃話題の空母「カール・ビンソン」とほぼ同じ、という風人さんの説明に聞き入ります。 確かに大きい!

欽明天皇が葬られているという説もあるこの古墳ですが、宮内庁が欽明天皇陵として治定しているのはここから南に下った場所にある「平田梅山古墳」のほう。
とするとこちらは蘇我稲目の墓?
でもこの大きさ。なんたってカール・ビンソン。
蘇我稲目がいくら大臣とはいえ、大王より大きいお墓造るかね?
いやいや、欽明天皇は「檜隈の陵」に葬られたと書紀に書かれているけれど、ここはどうみても檜隈じゃないし。檜隈といったら平田梅山古墳のほうでしょ。
……などなど、のっけから被葬者論が頭の中で大爆発です。


続いて向かうのは「植山古墳」。

……と思ったら、小さな神社に寄り道。
その名も「八咫烏神社」。

八咫烏ですよ、ヤタガラス。
あの、サッカー日本代表のエンブレムの。

その八咫烏神社の奥(建物の裏側)の、階段前の踏み石。

それが、な、なんと!

これから行く「植山古墳」の西石室の扉石の一部を転用したものらしいんですよ!

両槻会・よっぱさんの説明に、足元を見てみれば、確かに側面が丸みを帯びたそれっぽい石が。
植山古墳の石材は、他にも素戔嗚命神社の踏み石や春日神社の土留め石に転用されているというからびっくりです。

古墳(お墓)の石を転用、それも「踏み石」にしちゃうなんて、なんつーバチ当りなことをっ、と思うけど、植山古墳の被葬者は推古天皇とその息子の竹田皇子とされていて、二人はのちに別の場所に改葬されたので、改葬したあと使わなくなった石材を転用したということらしい。
せっかく切り出して運んできた石材は有効に使わなくっちゃね、てとこなんでしょうか。

で、植山古墳に到着し、よっぱさんの説明を聞く。
よっぱさんの声はよく通る。説明も的確。さすがです。

中でも、丘陵上に立っている新旧2時期の柱列のうち、古いほうは135度屈曲して並んでいる、というのが興味深かった。
135度の内角を結び合わせると、出来上がるのは八角形。
八角形といえば、のちに大王の墳墓のシンボルとなった「八角墳」が連想されます。

……でも、私は今まで八角墳は「押坂王家」のシンボルじゃないかとひそかに考えていたのだけれど、押坂王家が敏達天皇の妃である息長真手王の娘・広姫から始まることを考えれば、敏達のもう一方の妃だった推古の墓にそれを刻むのはありえない。ということは「八角墳が押坂王家のシンボル」っていう説は却下ってことかっ? などなど、またまた頭が大爆発。


植山古墳から春日神社に立ち寄り、これも植山古墳から転用されたという土留石を見学。
これも、ちゃんと知ってる人に案内してもらわないと、絶対に気がつかない。
さすが両槻会。ディープです。


宅地に造成された丘を抜け、甘橿丘公園でお昼。


お昼ご飯のあとは、近ごろ話題の「小山田古墳」へ。

ここは以前は「小山田遺跡」と言われていたけれど、詳細な発掘調査の結果、一辺が70メートルもあるとされる方墳と判明し、「小山田古墳」に「昇格」したのは新聞報道の通り。

ここからは、帝塚山大学の学生さんたちが説明を担当。
この古墳は4回生の能勢さんが説明してくれました。

能勢さん、なかなか上手。
緊張はしているんだろうけど、淀みなく、ツボを押さえた説明ぶり。
すごいなぁ、うまいなぁ、と、人前で喋るのがとことん苦手な私は感嘆しきり。


続いて脇の小道を入り、 「菖蒲池古墳」へ。

ここは院生の山本くんが説明を担当。
身振り手振りを交え、なかなかの熱演でした。

先ほどの「小山田古墳」とこの「菖蒲池古墳」を、蘇我蝦夷と入鹿の造った「大陵」「小陵」とする説があるけれど、なぜかここには石棺が二つ納められている。
なぜに二つ? というところが謎。

甘橿丘丘陵から下ってくる場所に造られていることからして、小山田古墳と菖蒲池古墳は、蘇我系の墓と考えるのが自然。
ただ、蘇我系といっても候補者はたくさん。
・「蘇我倉山田石川麻呂とその息子・興志(謀反の疑いをかけられ自殺)」
・「境部臣摩理勢(馬子の弟)とその息子の雄麻呂(舒明即位にからんで誅殺)」
・「乙巳の変で死んだ蝦夷と入鹿を、造成していた大陵ではなく小陵に二人一緒に葬った」
などなど、この二つの石棺に眠る候補者はたくさんいる。いすぎて困る。
(というか、蘇我系には「親子で殺された」ってパターンが多い。多すぎる。これって何?)

一方で、「いやいや、小山田古墳の被葬者は蘇我じゃない。小山田古墳は舒明天皇が初めに葬られた「滑谷岡」だ」という説も説得力があり、謎は深まるばかり。

うーん、こうやって頭をひねるのが、古代史の醍醐味。
楽しいったらありゃしない。


次の「天武・持統陵」に向かう前、小山田古墳の説明を担当した能勢さんが、
「皆さんちょっと振り返ってみてください」
と言うので、立ち止まってみれば、そこは先ほどまでいた小山田古墳を下から見上げられる場所。
一辺70メートルというその大きさが、今も如実に実感できる。
しかもそこは古代の幹線道路が交差する地点。

能勢さん! 素晴らしいよ! すごいよ! オバちゃん大感激。


ちょっと長くなっちゃったので、続きは次回。


『飛鳥学講演会』のお知らせ

今年の「明日香村まるごと博物館フォーラム・飛鳥学講演会」は、7月23日(日)に、有楽町・よみうりホールにて開催されます。
皆さまふるってご参加下さい!



平成29年度 明日香村まるごと博物館フォーラム
『飛鳥学講演会』


日  時:平成29年7月23日(日)
     開場 12:00
     開演 13:00
     終演 16:00(予定)

内  容:
『飛鳥の女性と仏教』
 ・発掘報告「最近の飛鳥における発掘調査成果について」
         高橋幸治氏(明日香村教育委員会文化財課主査)
 ・講  演「飛鳥仏教と尼寺~考古学からのアプローチ~」
         清水昭博氏(帝塚山大学教授)
      「日本の黎明」
         澤田瞳子氏(作家)

開催場所:東京有楽町よみうりホール(東京都千代田区有楽町1-11-1)

定  員:1,100名(先着順)

参 加 費:1,000円(当日徴収)

主  催:(公財)古都飛鳥保存財団・明日香村・帝塚山大学・読売新聞社

お申込み方法
 住所、氏名、年齢、電話番号を明記のうえ、往復はがき又はEメールで下記までお申込み下さい。
〒634-0138 奈良県高市郡明日香村越13-1
 (公財)古都飛鳥保存財団 飛鳥学講演会係 まで

Eメール:event@asukabito.or.jp

詳しくはこちらのホームページで。




ご覧ください、この豪華な講師陣。

発掘報告 高橋先生。
 楽しみです! 今年はどんな成果を発表して下さるんでしょう。早く首塚の下を掘ってほしい。

帝塚山大学教授 清水昭博先生。
 6月3日の両槻会定例会でも活躍して下さることになっている清水先生。東京でもお目にかかれるなんて! きゃ~ と、ほとんどミーハーな私。


この講演会、自信をもっておすすめいたします。
皆さんふるってご参加下さい。

当日は私も、飛鳥応援大使としてお手伝いの予定。
会場のどこかでお目にかかりましょう。



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梅前佐紀子

Author:梅前佐紀子
「皓月 皇極・斉明天皇物語」

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